1980/04 ネパール

しかし、往々にそうなのだが、行く前にいろいろ無理をして過労になっていたようでタイの水が合わず、すぐに体の調子がおかしくなり、下痢をして,ネパール に飛ぶ時にバンコクの飛行場で応急の注射をしてもらい、うんうんうなりながらネパールの空港に着いた。この先を予感するような旅の始まりであった。

その当時,カトマンズの空港は掘っ立て小屋のような粗末な建物で空港の敷地にのんびりと牛が草を食んでいた記憶がある。カトマンドゥ市内に入り、予てから旅行本で見ておいた伝説の安宿ストーンハウスロッジに落ち着いた。

ネパールの首都カトマンドゥは標高1500mそして標高2500m前後の山に囲まれた盆地である。町並みはレンガで出来た建物のせいで茶色っぽく、ヒン ドゥー寺院やラマ寺院が立ち並び、中世さながらの雰囲気が漂う。天秤棒をかついだ人々や道端に広がるバザール、お寺の形等を見ていると日本の室町時代はか くあったのではと思われる。

ネパールその①
はじめて外国にでたのは1980年だった。そのころのパートナーのNと帯の図案のアルバイトをしながら1年で100万円貯め,インドとネパールに行く事に した。Nは二十歳の時に初めてインドに行き、2年ほどいたのであるが、お決まりのようにパスポートも盗られお金も盗まれ、いろんな目にあってインドで出来 上がって帰ってきたつわものであった。

このNとのはじめてのアジアの旅はいろいろな意味で旅の現実という試練を与えてくれた。まず、すぐインドへ飛ぶよりネパールで慣らしてからインドへ入ろうという計画でバンコクを経由して行く事になった。
だからわたしにとってはじめての外国と言うのはタイという事になる。飛行機は昔の伊丹空港から6時間ほどでバンコクに着いた。ドンムアン空港から市内まで の風景は私には経験はないのだが、戦後の焼け跡の復興していく感じはこうではないかと思われる何かなつかしいような原始的な風景という感じがしたのを記憶 している。

私は見かけはヒッピーそのものであったが、大学をでて京都の中学校で美術の非常勤講師をしただけの世間知らずのお嬢ちゃんであった。だがその宿の連中は世 界を叉にかけて旅している日本ではあまりお目にかかることが出来ない旅のつわもの達や社会にフィットしないで根無し草のように海外を漂っている者,物書 き、カメラマン,ジャンキー達の溜まり場であった。

私の相棒のNはまさしくこの部類に入る風変わりで神経質なインド上がりの男であった。彼は彼の旅の美学がありそのスタイルを初心者の私にも押し付け結構きつい旅のスタイルが出来上がっていき、私の柔な体は段々弱っていく事となった。
  1980年のカトマンドゥはもうヒッピームーブメントの波が去った後だったがまだその香りと最後の煌めきを残していた。

街のそこかしこにしゃれたレストランやカフェがあり、私には新鮮であった。Nは8年ぶりくらいで非常に懐かしそうだった。単にアメリカやヨーロッパや日本 のような先進国のおしゃれと言うよりは自然(太陽や月や植物や動物が渾然一体となった)と溶け合い、それプラス白人達のセンスで仕上げたようなおしゃれと いったらいいだろうか。
ただ、料理は石油(ケロシン)ストーブを使うので独特の石油臭いにおいが付き鼻についた。


また、油も真っ黒の古いものを料理に使っていたので体に凄く悪そうであった。
またあのころのトイレ事情はひどいものであった。おまけに停電が多いときている。ローソクの灯りのもととでの食事はロマンチックだし,時間の観念を変えて くれもした。ただトイレはその頃は相当ひどいものだったからそのきたなさと滑りやすさに辟易したものだが、滞在が長引くにつけ慣れていったのには我ながら 驚きだった。

こちらの方が先進国のあの無菌室のような表面の清潔さより実はましなのではと思うこともあった。表面がいくら綺麗であってもO157や化学物質の汚染やいわゆるバイオハザードと言われる汚染があるほうがずっとこわいではないかという気がした。

体の調子も少しずつ回復し、宿で自炊しながら,お寺などを訪ね歩き始めた。
自炊も調理ストーブを買い、包丁を買い、食器などなど買い集めながら、中々手間の要ることであった。日本では短時間で済むことがここではいろんな不便とあ いまって一日にひとつことできればいい方である。はじめはどうしても日本の感覚を引きずっているのでいらいらするが、段々それにも慣らされてスムーズに行 かないのが当たり前と言う風に気持も変化していく。

カトマンドゥ西方3kにあるスワヤブーナート寺院にまず、お参りした。この寺は世界遺産にもなっている古い仏教寺院(といってもラマ教の)で300mくら いの小高い丘の上に建っている。沢山の参拝客がインドからもやってくる。別名目玉寺といって仏塔の四方に目が描かれている。これは仏陀の目で四方を見守っ ているらしい。

また別名をモンキーテンプルといい野生のサルが300匹生息している。まあここのサルもご多分に漏れず非常に危ない奴らである。私も人参をぶら下げて歩い ていて後ろから付け狙われもぎ取られたり,トイレ(外)にいって四方八方から迫られた事もある。このあたりの民家は窓に全部鉄格子がはめられサルに入られ ないようにしている。朝早くこのお寺に登るとバジャンと言う宗教音楽を地元の近所連がハルモニウム〈置き手風琴風の〉を演奏しエスニックな御詠歌をうたっ ている。

 

これが実に何とも言えずいいもので聞いている私はなぜかいつもじーんと心に染みてきて涙が出てくるのであっ た。またここからはカトマンドゥの街が一 望でき,朝日の登った、また夕日の、叉霧に包まれた、叉満月の夜の,叉は虹の出たカトマンドゥの街を楽しむことができる。緑も多く静かな郊外である。私の 一番好きな場所である。また街の中にもこれの小型版とでもいったお寺がいくつか点在している。

元々ネパールには4つの都があった。カンティプール,ラリトプール、キルティプ-ル,バクタプールで今はカンティプールがカトマンドゥの首都になっている。

 そして、世界から集まったヒッピーや観光客が入るなんとも異色な街での生活が始まった。

一緒に行った相棒のNとはすでに京都の桂で、一緒に1年暮らしていたが、とにかく私はまだ30歳でNは28歳、若くやんちゃな二人であった。

彼には私より前に彼女がというか気になる女の子がいて、今でいう二股をかける気もあったと思うが、(彼はその頃東京で生活していた)私はどっちを選ぶか迫ったのである。

私は彼の初恋の人だったらしくて、結局私を選んだのである。そして私の住むアパートにお婿入りをしたのであった。